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第5章『「DNAの生存本能」で「世の中」を考える』→ DNA の 生存本能で、『正義』を 考える |
ミューラー の 話を聞きながら、 実は ふき にも、 いくつか 「思い当たること」が 思い出されてきました。 たとえば 『タバコ』です。 かつては、 成人男性の 定番アイテム と言えば「タバコ」であり、 ふき も よく、 父親がタバコを 吸っている姿を見て、 そこに「大人」を 感じたものです。 また 当時は、 タバコの味が分からない 成人男性は、 「半人前あつかい」 されていたような風潮も あったと聞きます。 ところが、 20世紀の終わりごろから、 『タバコ なぞは、 百害あって一利なし』 という世論が、 猛烈な勢いで ふくれ上がり、 それまで 当たり前 のように 世の中にいた 「喫煙者」たち は、 一挙に 犯罪者あつかい … 『喫煙は、喫煙所のみで お願いいたします』 の 注意書きが、 各所の施設で 見受けられるようになり、 「人の集まる場」での喫煙は、 『特定の喫煙ゾーン』のみに 限られる ことが 当たり前 と なっていきました。 たしかに、 タバコの副流煙による 発ガン性の危険 は あるようにも思えます。 でも、 ガラス貼りの喫煙室で、 肩身が狭そうに タバコを吸っている 人々の姿や、 「禁煙」に成功した人が 「何かの英雄」のように メディアから 褒めたたえられている 姿を見ていると… ふき は 心のどこかで、 | |
何か これ、 おかしくないか? | |
といった、 正体不明の違和感 というか ジンワリとした恐怖 を、感じずに おれないのです。 このケースでは、 『喫煙者』と『非喫煙者』 の 2つの勢力で、 多数派 と 少数派 が 入れ替わった ために、 価値観の変化 (正義と 悪の 逆転)が 発生した と 見ることができます。 |
その一方で、 本来「迷惑行為」な はずなのに、 『その迷惑を 実行している 人間の数が多すぎる』 ゆえに、 「現時点では」 ナアナアに放置されている ものもあります。 その1つが、 『歩きスマホ』 です。 まだ 世の中に 「スマホ」(スマートフォン) などという物は もちろん、 そうした呼び名すら無く、 ようやく 『ケータイ(携帯電話)』が 少しずつ広まりつつあった ぐらいの時代には、 「携帯電話 片手に、 人の行き交う中や、 自動車に接触しそうなあたりを フラフラ歩き回る」 ような人は、 『自分が 周りに かけている迷惑を 自覚すらできていない、 トンデモナく困った奴』… という認識が 一般的でした。 ところが、 誰もがケータイを 持つようになる (多数派になる) に したがって、 そうした迷惑行為が 『日常の風景』に なってしまい… 「その 迷惑ぶりを指摘する人」 のほうが むしろ、 『細かいことに イチイチ突っかかる、 空気の読めない 少数派』 という、 なんともオカシナ事 に なってしまったのです。 電話 として 耳に当てているだけの 「ケータイ」ですら、 使用者が 注意散漫になって 危険 だというのに… 『画面を見る』ことが メインになっている 「スマホ」は、 その危険度が ケタ違い です。 実際、ふき も、 社用で自動車を 運転しているとき、 何度、「歩きスマホ」の人の 唐突な動き に ビックリさせられたり、 接触しそうになって 冷や汗をかかされたことか… | |
しかし、 現代のように 「スマホが 全盛」 であり、 「道路において、 歩行者の占める割合のほうが 圧倒的に多い」 うちは、 「歩きスマホ」のほうが 『正義』(多数派)であり、 それをマナー違反だと 指摘する者のほうが、 『悪』(少数派)に されてしまう のです。 『 歩行者の数のほうが 圧倒的に多いのであれば、 「ながらスマホ」の 社会に対する迷惑度も、 歩行者のほうが 自動車などより、 圧倒的に 大きいんじゃないの?? 』 といった 「客観的な 疑問や思考」は、 そこには存在しません。 正義(多数派)に 反する者は『悪』。 これが 『数の正義』の 持つ、 恐ろしい側面の1つ なのです。 |
さらに、 海外に目を向ければ、 中国・韓国・北朝鮮 といった 一部のアジア諸国は、 『日本を、アジアの悪党』 と 国民に教育する、 いわゆる 『反日教育』を 施しているそうです。 このような、 『仮想敵』を作ることで、 相対的に 「身内の結束を強化」する… という やり口は、 国 は もちろん、 一部マスコミ、 企業など各種団体 でも、 大なり小なり 行われてきた(行われている) マインドコントロール の 1つですが… そうした 「教育」を 施されている彼らは、 きっと、 『自分たちの歪んだ正義』に 疑問すら抱くことは無い でしょう。 なぜなら 彼らは、 『その団体内においては 多数派』なのですから… | |
こうして 改めて 振り返ってみると、 つい先ほどまでは、 「多数派の意見は 正当」 「それが 民主主義の良さ」 などと考えていた ふき も、 いかに 「支持する人の 数の大小」が イイカゲン かつ 利己的なもの かに 気づいて、 なんだか ワケが分からなく なってくるのでした… | |
ま、どっちにしろ、 「正義」とか「悪」とかの 正体っていうか スタート地点なんて、 『ただの 個人の損得』 なのにさ… | |
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深く考えずに そんなものに 振り回されて、 『正義のために!』とか、 『悪を討て!』とか ほざいてる連中 は、 ほんと単純ってか、 アホ だと思うわ? | |
ふき も、他人のことを 言えた義理では ありませんが、 たしかに、 アヤフヤな『 正義 』に 振り回されている人が、 この世の中には なんと多いことか… 『自分たちの、ゆるがぬ (と 思い込んでいる) 正義 』 に したがって、 妄信し、陶酔し、 ときに、他者に対して 攻撃手段 に出たりもする 彼らですが… その『正義』の 実態が、 「正義」とは名ばかりの、 『個人的な欲求の 正当化』 であったり、 『どこかの誰かが、 自分が得するために コッソリと周りの人々を 「心理操作」しているに すぎない代物』 だと 判明したとき、 一体 どうやって 責任を取るつもり なのでしょう…? でも 今は、 まだまだ「そこ」に 気づける人が、 世の中には少ない のだと思います。 いまだに さまざまな 目先のケンカや 戦争を、 この世から 無くせていないことが、 何より それを 「証明」しているように 思えるのです… |
『正義』とは、 共感する人が多い「得」 の ことです。 そして それは、 良くも悪くも『力』となって、 社会に影響を及ぼします。 「ゆがんだ正義」は、 ゆがんだ力として、 ときに あなた自身の 生活や命を 脅かすかもしれません。 ですから、 『正義』と名の付くものに かかわるときは、 十分な注意をもって 臨(のぞ)んでほしいのです。 あなた以外の誰かが、 『正義』を 名乗ったときに… あなた自身が、 望む望まざるにかかわらず、 『正義』と なったときに… |